意味や利益を求める心、信じなさいと言われても頷けないから、We want to understand before we try
今朝は福井別院の暁天講座で、「お念仏は義なきを義とす」、to meet with the living Nembutsu についてお話しをさせて頂きました。
意味や利益を求める心、信じなさいと言われても頷けないから、
We want to understand before we try 、。しかし宗教やお念仏は主観的なものであり、「自分がどう感じたか」、自身で出遇っていく以外道ないです。
義なき を義とす、
The meaning of no meaning
「人間の心」and 「Working of the Buddha」,
全てにmeaningを求める、直ぐに答えを求めるが、仏道は道であり、process です。道が大事であって、一生問い続ける歩みです。
『歎異抄』の第十条などで
「念仏には無義をもって義とす」と書いてあるが、英語では
in the nembutsu, no self-working is true-working
となります。
→ Beyond Calculation、
beyond description, explanation, and conception
私たちの「ああしたい、こうすれば救われるだろう」という自己中心的な考え(=義なき)をすべて手放すことこそが、仏の大きな力にそのまま救われる真実の姿(=義)です。
知り合いの住職さんは、お連れ合いを亡くしてから、念仏は疑いの念仏から自然に出る念仏に変わったそうです。救われるかどうかも関係なく、ただ一日一日を感謝しながら生きている、そういうお念仏になってきたそうです。
私は、住職さんが話されたお念仏、実感できる日もあれば、やはりその意味について考えてしまったり、疑ったりする日もあります。
これこそは私に必要なプロセスであるのは確かです。疑わざるを得ないが、実際に身に感じた瞬間は疑いも消え、大きな喜びを感じています。
仏教でもキリスト教でも、True working に出遇った人はうちから喜びが湧き上がり伝わってきます。それこそは信心歓喜でしょうね。
change our focus from the fear of death to the joy of life、苦しみの中にいても、何気ない毎日に喜びや生き甲斐を見出す。抱えてる問題こそは、今の私を作り上げてきたものです。





