Does the teaching need a language? 教えに言語ありますか?
Does the teaching need a language? 教えに言語ありますか?
人に伝えていく為には確かに言葉が必要になるが、真理そのものは言葉の壁も超えていると思います。
ジェシーはどんな言語で考えているの?と時々質問されたりします。しかし、思いそのものには言語もない。言ってみれば、思いは言葉に表現される以前のものであって、他人に伝えるために言語化 or put into words が必要となる。
教えも同じでしょう。真理そのものには言語もない、、それが私たちに伝わる為、初めて言葉になります。
真理そのものに私たち一人一人がどのように出遇い、またその経験をどう表現するかによって、形も変わっていくと思います。
今朝は田中先生のオンライン Shin Buddhism の勉強会、座談会に参加しました。アメリカにある寺やBuddhist church では以前正信偈を英語で勤めようとしたそうです。何を唱えっているのか、訳分からないままではなく、アメリカ人にも意味が分かるようにと言うチャレンジだったみたい。しかし、英訳された正信偈に違和感ある人もいたようです。その方は事前に意味を調べて、そして皆でお勤めする時は日本語で読んだ、その方が自然に感じると話した。
私自身は英語の表現がナチュラルに感じる。真宗を日本語で学ぶと専門用語が多くて、その意味がなかなか把握できないところがある。
信心獲得、the process of awakening to true reality beyond the self, 私には理解しやすいです。
親鸞さんは日本語で書き残したが、それを現代語に直したり、英語で表現したりするのも学びのプロセスとして重要なことだと思います。
ですので、Does the teaching need a language?
I don’t think it does. 教えを伝えていく人という存在が必要ですが、英語になってもドイツ語になっても、中味が変わりません。
写真は庭でオンライン勉強会に参加してる様子です。



