私たちの命は、大いなるいのちの中に浮かんでいる一つの泡のようなもの、

この事を気づかせてくれたのは、

「今、いのちがあなたを生きている」
という東本願寺のテーマです。

本願寺の前にあるバス停に立っていた私には最初その意味がよく分かりませんでした。

「涙の出るようなご縁に遭わないと仏法は響かない」という言葉がありますが本当にそうだな、と身をもって実感できました。

小さな命を支えている大きないのちがある、しかし頭で考えても分からない。

真宗学院で学んだ時、講師の話しを理解できなくて、戸惑っていました。周梨槃特のような自分であると、その時は感じました。

そのいのちの不可思議なはたらき、「大いなるいのちはどういうものか」を理解するは
「ザルで水をくめ」と同じことになる。水が流れ落ちるので、
水中にザルを付けること、大いなるいのちの中に自分の身を浸すのみです。

今日の法話で
「人は皆、初めから仏の心を持っているのだ」
「皆本来宝を持って生まれている。
その宝はいのちそのもの。あなたの生きている、そのいのちが、実は仏の素晴らしい心なのだ」
と少しお話しをさせて頂きました。

私たちが目指す学びとは、知識を増やすことではなく、「本来の自分の持っているものの素晴らしさに目覚める」だと思います。

また、ずっと受け継いできた大きないのちの流れの中で、今、ここに自分が存在していて、過去の色んなものが、全部自分の中に入っている。

ですので、
「命を大切にする」とは
「今」をおろそかにしないこと

価値ない人間一人いません!

お釈迦様は、生まれてすぐに「7歩」歩いて「 天上天下唯我独尊」と説かれました。

「唯我独尊」とは、「ただ、我、ひとりとして尊し」と

私たちは、天上天下にただひとりの、何ものにも代えがたい存在です。 

人間は、何らかの条件を得ることによって尊くなるのではありません。能力、学歴、財産などの有無を超えて、何ひとつ加えなくても、「私の命」は尊いのです。

「体」は生きようとしている。「私」という存在は、生きているだけで尊い。 そのことを無視して、命を粗末に扱う行為は、「愚か」である。

「命を大切にする」とは、過去の思い出にすがるのではなく、未来の自分を想像するので もなく、「自分の命は今しかない」とあきらめて、生きている「今」をおろそかにしないことです。

今日は今年度、初めての法話でした。奈良教区仏教婦人会連盟
「仏婦・若婦人 研修会」にご縁を頂きました。
300席のある会場で、250人も来てくださり、皆の教えを求めている心、その気持ちに圧倒され、感動しました。沢山の人に応援して頂いて、申し訳ないと思いながら本当に嬉しかったです。

最後に尺八を30分程演奏させて頂きました。小ホールで音響はなかなか気持ちよかったです。小さな命を支えている大きないのちがある、その事実に気づかずに、頂いた尊い命を捨てる程悩んでいる人がいる、その悲しみを感じ取りながらの演奏でした。

南無阿弥陀仏
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