病気や老いが進行している中、最期まで側にいると、簡単に約束してしまった私、実際に約束が守れない自分であると自覚、、。
私は誰か、をも忘れていくかもしれない、そういう人を本当に最期まで見守れるのか、と日々悩み苦しんでいる私、、。
もう私を思ってくださらないなら、早く死んだらいい、、とまで投げかけて、実際に私自身もお坊さんとして失格、、人間として、友人として失格、、しかしこれは心の叫び声である。
これこそ、今日福知山での法話で語って行きたいと思いました。
人間にはいかに摂取不捨できないのか、以下に見返りを求めて生きているのか、生の証です。
深い悲しみを通してのみ見えてくる世界、まさにそうだな、、苦しみを味わっているから、人の苦しみに心が開ける。
例え、あなたは私を忘れるとしても、それに耐えて、側で見守れるのか、と問われている、、
頭が、無理と言う、心が、これは摂取不捨の道であると分かりながら、その道を歩む自信がない、。
しかし心を悩ませている関係こそ、深まっていく関係でしょう。楽な付き合い、それはその人に本当に接して付き合っているものとは違う。
お坊さんとして私の歩みが問われている課題は山程です、、。
先日高雲寺の盂蘭盆会に久しぶりにお参りしてくださった、息子を事故で亡くしたお母さん、、。
以前はお寺の行事に必ず参加された方でしたが、何故如来は息子守ってくれなかったか、とお寺や如来に対して怒りがあり、高雲寺に来なくなった、、と門徒さんからお話しを伺った。
盂蘭盆会にそのお母さんだけではなく、亡くなった息子の嫁や、孫、家族全員引っ張って、お参りされた。それを見て涙を浮かべました。
高雲寺で亡き人の願いに耳を傾ける重要さを感じるようになった。
高雲寺は私を育ててくれる、身を置くべき場であると、ますます感じるようになった。
それと同時に、過疎地や高齢化中、どのようにして教えを次の世代に伝えていけるのか、身近に感じる場、いや、感じざるを得ない場、ともなりました。
これは私にとって必要な促しであったと受け止めています。次の段階に辿り着く為にでも。
これは身を置くべき場であるという声や、私の心を信じ、この道を歩ませて頂いています。
ここで、人の為になれると感じているからこそ。
本光寺、正信婦人会「夏の集い」でした。
ありがとうございました!
高雲寺と同じく、かなり田舎にある寺院で、同じ課題を感じました。