近江第2組の人権研修会で最後の質疑応答で住職をされている方から、印象に残る問いかけがありました。「苦しみや悲しみをご縁として、ジェシーは母の悲しみが真宗の教えに出遭わせてくれた。その出遇いを伝えていけるが、そこまで深い悲しみと出遇っていない、ただ住職を継いだだけの人はどのようにして、門徒さんに真宗の教えを伝えていけばよいか。住職自身に宗教的経験がそこまでない場合は、何をどのように伝えていけばよいか、迷いを感じる」と。

質問を正しく受け止めるのも難しいですが、歩みの浅い私が先輩の住職に意見、アドバイスを求められて、ただただ恐縮に思いました。

私はありのままの自分を曝け出しながら、真宗の、私が出遇わせて頂いているもの、或いは、自身の中もまだ疑問として残っている事を語っているだけです。それを法話と言いえるかどうかも分からないです。外国人であり、最初から参加者の注目を頂いている事もあるでしょう。

私が師の一人として仰いでいる鈴木 大拙先生(鈴木 大拙、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉)ですが、実際に出遇った事はないです。先生が残してくださっている本の中で、彼の思想を知るだけです。先生はいなくても、彼が伝えようとした、生きた教え、great living に、自らが日常生活の中に出遇っていく以外、ないと思います。

鈴木 大拙先生は日本の禅文化や、浄土真宗を海外に紹介しました。英語の表現もわかりやすくて、読みながら先生の心が伝わり、その中で如来の呼びかけまでも届く事があります。

理性的に理解できる内容ではなく、あくまでも、宗教的経験であり、experience です。ですので、それは間違っているかどうかは私には分かりません。ただその経験や、先生のお言葉を私が話しているだけです。

例えば「信心」について問われるとしたら、学問としては伝えられるとしても、おそらく他人には伝わらないでしょう。「貴方は頭で考えようとしてるから分からない。身で考えなさい!」と昔、師の一人に指摘されました。

親鸞さんの受け止めから学ぶのは間違いなく入り口にはなりますが、最終的は「群盲像を評す」にしかならない。 一人一人が出遇っていく、それしかない、。一人一人が出遇ったものを言葉で思い描こうとしても、皆異なっている。真実を握っていると思うから、正しい、間違っている、という議論になる。

「群盲像を評す」ですが、
5 Blind men attempt to define 信心。
Everyone encounters it in a different way. 

Only Buddha the awakened one knows the ultimate truth and therefore knows that the 5 men are both, right and wrong. 

偏った味方しかできない、therefore we have a limited experience or perspective. 

しかし、一人一人の出遇いはその人にしかないもの、経験であり、決して間違ってはいないです。

私たちの出遇えたもの、for sure everyone has something to tell、
それを門徒さんに伝えたら良いのではないでしょうか?

本日は約80人くらいの参加者だったようで、沢山の人に聞きにきて頂いて、本当によかったです。
組長によると、人権研修会はあまり人気がないのだそうです、、😅。
組長の藤岡さんに貴重なご縁を頂いて、本当に感謝しています。いつも応援して頂いてありがとうございます‼️
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