「宗教の主観的な事実」subjective fact
「宗教の主観的な事実」subjective fact、をどのように表現していけば良いか? ある意味、群盲象を評すことになるでしょう。
「群盲象を評す」は、インド発祥の寓話で、視野の狭い人たちが物事の一部だけを見て全体を理解したと錯覚し、間違った判断をする例えです。全体像把握の重要性を説く際に用いられるが、私たち人間には教えを教学として本から学んでも、全体像の把握は無理な話しです。人間の知識では仏の不可思議は把握できない。
全体像を把握できないが、皆それぞれ部分的なところ掴んでいる。We all have encountered something, are partially right but are unable to grasp the full picture.
宗教が客観的な物理法則のように誰にとっても一律に証明できるものではなく、個人の体験、信念、解釈に基づいて「事実」として成立している。
個人の現実(Subjective Reality)信者にとって神の存在や教えは真実ですが、それは個人の心や内面的な体験に基づいているものである。だから人間にしか語れない。
最近話題となっているAI ですが、
AI の普及により、今後5年で世界で約1400万人の雇用が失われる可能性があるそうです。AI は人間より優れているところはたくさんあるが、主体的な経験の欠如がある。
ですので、AI に宗教について問いかけても、答えきれないところがある。真宗聖典、キーワードの検索は人間より早く直ぐに答えが出るが、主観的な事実である宗教はAI の領域外となる。
法話の在り方についてよく議論されているが、個人の体験、信念をこそ伝える必要があると感じています。親鸞さんに残されている言葉に私たち一人一人がどのように出遇っているか、どのように影響されたのか、私はそこが聞きたいです。
最近牧師やシスターになった人の個人の心や内面的な体験に耳を傾けているが、本当に勉強になります。その Subjective Reality は、私自身が如来のはたらきを日常に実感しているのと共通点が沢山あります。
真理そのものにどのように出遇っているか、それをまたどのように表現して行けば良いか、そこが問われているでしょう。
今日は九州,「2025年度京都組総合研修 同朋のつどい」で会場は浄喜寺でした。
浄喜寺(じょうきじ)は、1495年に開基された真宗大谷派の歴史ある寺院です。2018年には「絹本著色親鸞聖人絵伝」や「紙本著色良慶上人像」など、複数の絵画や考古資料が市の文化財に指定されているようです。
冊子はあっという間になくなりました、、。今日のテーマは「お寺は誰のものか」で、高雲寺や門徒さんとの触れ合いについて色々お話しをさせて頂きました。
浄喜寺の規模に圧倒され、感動しましたが、うちの小さな高雲寺も魅力的だな、と感謝の念で帰路につきました。





