最初は誰もが「日本人になりたい」
昔の写真の続きから、私の歩みはさらに深まっていきます。来日してからは、空手に加えて居合いのお稽古も始めました。日本に憧れる外国人は皆、訪れる前に自分なりの「理想の日本」を心に描いているものです。しかし、いざ現実に暮らしてみると、その理想と現実のギャップに直面することになります。
最初は誰もが「日本人になりたい」ほどの強い憧れを抱くのかもしれません。しかし、どれほど日本の技術を磨き、それをマスターしたとしても、決して「日本人」そのものにはなれないという厳然たる壁に突き当たります。
しかし、真宗の教えを学ぶうちに、私は大切なことに気づかされました。
「日本人になれない」のではなく、「ならなくても良い。私は、私のままで良いのだ」と、ありのままの自分を受け入れられるようになったのです。日本人であろうが外国人であろうが、仏様の前では皆一等に平等であり、隔てはありません。
それでも、古くから続く保守的なお寺の世界で、外国人の私が本当に住職になれるのか、正直なところ不安もありました。それは周囲の目線だけでなく、私自身の心の中にある「先入観」や恐れでもあったのです。
かつて居合いや尺八の世界でも、「外国人には無理だ。日本の伝統文化の神髄を理解できない者に、表現など不可能です」と厳しい言葉を向けられたことがありました。
伝統の世界を外国人が極めようとすると、どこか自分たちのアイデンティティやプライドを脅かされるように感じてしまう日本の方も、当時はおられたのかもしれません。ちなみに、スイスにはヨーデルが非常に上手な日本人がいます。スイス人である私たちは、ただただその素晴らしさを応援し、頭が下がる思いで見守っています。文化を愛する心に、本来境界線はないはずです。
「灯台下暗し」という言葉の通り、身近にある魅力的な技術や風景の美しさは、常に側にあるがゆえに当たり前となり、その真価に気づけない傾向があります。だからこそ、外から来た人間の方がその輝きを敏感に察知し、はるばる遠い国から海を渡ってでも「学びたい」と足を運ぶのでしょう。
浄土真宗の教えの魅力もまた、これに似ているのかもしれません。なぜわざわざスイスというキリスト教文化圏から、この仏教の世界に魅力を感じて飛び込んだのか。それは、仏教が国籍や文化の垣根を遥かに超えた広い世界であり、「どんなあなたであっても、ありのままの姿で必ず救い取る」という、大いなる慈悲の世界であると信じているからです。



