求道心さえあれば必ず出遇う
「求道心さえあれば、必ず出遇う」
今振り返ってみれば、宗教的本能は私に子供のころから働いたと思わざるを得ません。スイスの田舎キリスト教の村に生まれ育ち、小学生のころから牧師のお説教に関心を持ち色々と問いかけました。求道心はもうそのころからしっかりと働いていたのは間違いないです。
私は真宗を学び始めた当初から、法蔵菩薩が気になるテーマだったが、どのように受け止めれば良いか、悩んでいました。
自分の外にだけいる阿弥陀仏だけでは違和感があって、学んでいた真宗学院の先生方に法蔵菩薩について問いかけたが、その当時は頷ける答えがなかったです。自分の外で答えを求めていたからかも知れないです。自分自身が問われている事に気づいていなかったです。
そういう中、仏教書店の法蔵館に行かれて、色々本を探し求め、いろんな本を買いました。英語で書かれている本は心に響いても、日本語で書かれている本は、語学力のせいか、あまり心に響きませんでした・・。間違った宗派を選んだのか、とまで悩んでいる時もあり、善知識となってくださる存在との出遇いに憧れていたその頃です。
そういう中で、
「曽我先生の『法蔵菩薩出現の意義』その英訳に出逢った時、私と同じ悩みのある人がいたことを知り、大喜びでした!
『外から』ではなく、『内から』『底から』『根元から』ということが私には頷ける表現でした。
内から法蔵菩薩の呼びかけが聞こえてきて、深く感動しました。私は真宗を選んだのは間違いではなかった。この道を歩むべきだった。歩むべき道だった。歩むべき方向が見えてきました。
法蔵菩薩について本を検索すると、宮岳文隆先生の「法蔵魂を呼び覚まされて」という本に出遇い、深く感動しました。先生の本はとても読みやすくて、私が切に求めていた事が書いてありました。その喜びの気持ちを宮岳先生に伝えたく、直接メールを書きました。そして、先生がその事をブログに載せてくださいました。
「このように、法蔵菩薩の教えに共感を抱かれた喜びの内容を書いてくださいました。
異国の地スイスから日本にやって来られて、真宗を学び始められ、自分の外にいる阿弥陀仏だけでは何かしっくりしないものを感じられて、曽我量深先生の「如来我となりて、我を救いたまう」という教えに深く共感され、法蔵菩薩の教えをもっと聞いていきたいと思うようになられわけです。私は、このようなジェシーさんの求道の歩みの上に、法蔵菩薩が生きて働いていることを感じずにはおられません。
ジェシーさんは、曽我先生の「如来我となりて、我を救いたまう」という言葉を聞かれて、「まさに、今 いのちがあなたを生きている、ですね」と言われました。私も、ジェシーさんの歩みの上に、「今 法蔵菩薩のいのちがあなたを生きている」と感じずにはおれません。 南無阿弥陀仏」
宮岳先生に色々教えて頂いて、心より感謝しています。
求道心さえあれば、必ず出遇う、これが確かです。
If we have the heart and the mind to listen, our prayers will not remain unanswered and we will eventually encounter this inconceivable working of the Buddha within ourselves .
「ただ 私を待っておってくださった仏様が 信じられたということだけが 私の生かされていく道だった」
私が毎日の生活の中で感じるどんな時でも、私がいつどんな身心状況の中にいる時でも、私はこの呼び声を心の中に感じさせてもらう時、たとえその状況が私にとって不本意に感じられるような状況であっても、法蔵菩薩はそこにおられて、じっとそこで手をついて待っておってくださって、その私を受け止めて、前を向いて一緒に生きてくださいます。今私のいる所に、法蔵菩薩は一緒にいてくださいます。
この呼び声は、私にとってお念仏の呼び声と一つになって聞こえてくる法蔵菩薩の呼び声なのです。
宮岳文隆先生、ありがとう![]()






