何故浄土真宗選んだのか、とよく聞かれていますが、考えてみたら、私はお念仏を選んでないです。お念仏に感動したから、僧侶になりたかったと言えたら、話しやすいでしょうが、そうではらありません。
私はむしろ儀式に憧れて、僧侶なりたかったです。逆に言えば、念仏者には得度する必要もないでしょうね。私は得度を望んだ時に、あなたは帰敬式でいいのでは、と僧侶の方に何回か言われました。得度する必要がないですと。
お念仏に感動して、浄土真宗に出遇ったなら、確かにそうですね。お勤め、読経に魅力を感じたから、僧侶の道に憧れました。しかし、お勤めで「南無阿弥陀仏」を称えるにもかかわらず、その意味を全く理解できていない私の歩みは、このままですと、プリテンドにしかなりません。
親鸞さんはお念仏にこんなに深く感動されたのに、私には何も感じていないです。これこそは、「恥ずべし痛むべし」と言うでしょうね。

親鸞はいずれの修行も実践できない自分にとっては、往生の道は「念仏」の他にはないと繰り返しています。なぜ「念仏」がそれほどまでに凡夫成仏の上で力を持つのかは、説明していません。念仏は阿弥陀仏の行為であるからこそ、「念仏」の働きは人間の常識では理解できない不思議な性格があります。「念仏」とは私の行為であると同時に、阿弥陀仏の行為でもあります。また、「念仏」は私の中で働く仏の行為です。

また、歎異抄、第九章では、「私には、念仏を申しましても、踊り上がるような喜びの心はなかなか生まれません、これはどうしたことなのでしょうか」と述べてあります。それに対して、親鸞さんは次のようにこたえられました。「私も同じような疑いを抱いて今にいたっています。あなたも同じだったのですね。」

私と同じく、親鸞さんも悩まれたのですね!ことは自分の課題に向き合う励みとなりました。
しかし親鸞さんの時代ではこのような疑問について素直に語り合えたが、今現在は、このような疑問をあげる事をどちらかというと避けてしまう傾向にあります。または、最初からそこまで深く教えに取り組まずに、本当の念仏に出遇っていない自分自身のあり方にさえ気づかない事も多いのではないでしょうか?

よくよく考えて阿弥陀仏の救済を身に受けるという事は、経典に説かれているように、天に踊り上がり、地に飛び跳ねるような喜びに包まれるはずの出来事なのですが、それは身に生じません。念仏をするようになっても、素直に教え通りに喜びに包まれる事がない私たちです。

喜びに包まれないだけではなくて、お念仏に出遇い、心より有り難いな、とさえ思っていません。

「自分たちの見ている世界を
『氷山の一角』だと認識することが、実はとても重要なのだ」という言葉を聞きました。

お念仏の隠れた大きさを発見しなければ、親鸞さんと同じ感動は味わえないでしょう。今の私に見えているのは氷山の一角にしかすぎません。親鸞さんの足跡を辿りたいなら、水面下の隠れた部分は、これからの歩みの中で出遇っていかなければなりません。
「氷山の一角」という言葉がありますが その一角を見たら、その下に見えない塊 があることも想像できると言うことです。 人間の意識の世界も同じでしょうね。見える世界があれば、同時に見えない世界ぎ潜んでいます。

念仏、何故出ないかな、自然には出ないな、と感じ、悩んでる私です。念仏が自然に出ないと、気づいたこと、悩んでることはある意味で、第一歩かも知れません。喜べないどころか、出遇ってもいないと言わざるを得ません。

浅ましい自分に突き当たるのは、いわゆる努力して積み上げた認識ではありません。瞬間的に直感的に感得することは師匠の言葉でした。
相手が側にいて下さるから、浅ましい自分に突き当たれます。
私を浅ましいなあと思う心が仏の心だと認識して初めて念仏が出ます。
 
これこそは、私が今念仏に悩んでる理由だな、と痛感しています。
仏の心という認識が足りないから、念仏が自然に出ているように感じていません。自分自身の事を浅ましいとなかなか思えないから、念仏も出ないのは当然でしょう。

なぜ念仏が大事なのか。其れは仏の心を頂くからなのです。仏の心を戴くから念仏は回向なのです。
師匠に頂いた言葉は心身に沁み入りました。
  
浅ましいと思う心に同時にお念仏がでて、初めて正しい自己認識になります。浅ましいと思う心は念仏、この言葉の中、親鸞さんの心、魂が感じられます。
  
出遇いが縁となり、私の歩みは、本当に念仏に生きる人への、深い旅が始まったと、心より感謝しています。
慚愧心こそ仏の心です。
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