沈黙の中で相手の苦しみに共感することは、私たち僧侶の大事な役目の一つです。
しかし人に向き合うことは、実際にどういう事でしょうか?

ある医師が、

病を診るのではなく人を診る”、
病を診たら、勝ち負けはありますが、人を診たら、負けることはありません。

“You treat a disease, you win, you lose. You treat a person, I guarantee you, you’ll win, no matter what the outcome.”

この言葉に感動しました。人を診る事が大切だと教えてくれる言葉です。人を診るのには、ゆっくり向き合ってあげない限り、本人の気持ちが分かりません。

肉体的苦痛はコントロールできるようになったにもかかわらず、死にたいと希望する人は増加傾向にある。何故そんなに死にたいでしょうか?
彼らが願っているのは、本当に「死」なのでしょうか?

安楽死を独断した母が、もういい、もう充分生きたから、「死」を望んでいると、語り始めた時、私は彼女の想いを受け容れずに、耳も傾けませんでした。

健康なのに、老いていきたくないと主張する母を、わがままとしか思いませんでした。何故そんなに死を望んでいるのか、と充分に向き合ってあげなかったです。

老いに対する不安でもあったでしょうね。不安と共に歩むのは念仏者です。老いを受け容れる、老いていく自分自身を受け容れるようになって欲しかったです。

阿闍世の物語について読んだ本にでてきた表現ですが、

「罪を罪としてありのままに受け容れる事ができるのは、罪を感じている自分を、まるごと受け容れてくれる存在に出逢ったときである」

「阿闍世の為に涅槃に入らない」
深い悩みを持つ者に対してこそ、仏の慈悲は注がれるということを意味します。

苦しむあなたが救われるまでは、私も一緒だよ、という慈悲の心を表しています。

「月愛三昧」とは、あれこれ言わないで、相手のありのままの苦しみを黙ってそばで受け止める慈愛を象徴しています。

そこにいて、沈黙の中で相手の苦しみに共感することは、苦しみの渦中にある人間にとって、とても心強いことになります。

Not doing but being 

しかし、これは私たちになかなかできない事ですね。

最近見た映画では、ある医師は社会変革を起こして立ち向かおうと決心し、クラウンの格好で人々を楽しませる活動を始めます。
彼は愛とユーモアを根底において、人に優しい医療を目指しています。

ひとをケアする理由はただひとつ。人間を愛しているからです。

ケアは愛を動詞化する。ケアは概念ではなく、行動です。

ひとを思いやるという人生を送ることによって、あなたは自分のなかで一番深い平和と安らぎを得る。

とパッチが教えてくれます。

Our job is improving the quality of life, not just delaying death."

ぼくたちの役目は死を遅らせるだけではなく、人生のクオリティをよくすることです。

私は周りの人に少しだけでも貢献できる僧侶になりたいです。
愛とユーモア、また悲しみを根底において、沢山の人と接していきたいです。なかなか実現できないかも知れないですが、そうは願っています。
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