外にある「やらい」、あるいは、自らの心にある「やらい」? 今日は教師後期修練を終えて、一安心です。後期修練で先生の方々や仲間を通して、親鸞の言葉や心に出遇えて、本当に貴重な時間となりました。自分自身の課題もあり、少し複雑な思いをした事もあります。
講義で「やらい」についてお話しを聞き、班担とそのテーマについて色々話し合いました。外にあるやらいと、私の中にあるやらい、心にあるやらいの事を。本山で、外陣や内陣の間にあるやらいをどうするかは、もう随分前から修練で課題にされているようです。しかし、本山でいつまでも解決されていない、やらいの課題を、何故修練生の課題にしているのかと、ちょっと違和感ありました。これこそは、本山の課題であって、修練生がどうかに変えれる問題ではないです。
真宗はとても貴重な事を説きながら、親鸞の「うち」である本山では、その教えは本当に生きている教えとなっているでしょうか?「選ばず、嫌わず、見捨てず」と「摂取不捨」の心を説いていますが、実際には説いているだけであって、自身には当てはめないように感じます。これこそは真宗大谷派僧侶である私たちの大切な課題だと感じています。きれい事を説くだけでは何も変わらない、これは親鸞の教えに生きるどころか、黙殺と同然であると、講義のお話しでした。
不思議にそのやらいを皆が見えているにもかかわらず、目に入らないふりしています。目に見えないやらいですか?
それとも、目にしたくないやらいでしょうか? それとも、目には見えていますが、声を上げるべきところ、自分の問題とせずに、ただ黙っているのでしょうか?
そうであれば、親鸞の心を見失っている事になります。外陣のやらいをどうするかよりも、先に更に大事な課題があるのでは、と私は感じています。しかし都合の悪い時は、「黙殺」です。親鸞は黙殺するでしょうか、現状を目にしたら? これは法然の教えに背いている、お念仏の教えに背いている、と今の姿を悲しむでしょう。自分さえよければ、では何も変わらない、大切な念仏の教えを見失ってしまいます。
「求道者とは自らの生きる道を見出せず、うろたえている人のこと、心の奥底で生きたい、頷きたいと願いを求めている人のこと」
で、自分自身の姿もそれと似ているな、と感じ、その表現に感動しました。居場所がない事に悩み続けてきた私です。これからも迷いが消えないでしょうが、共に願い求めている仲間がいると感じると、歩み続く、求め続く力となります。
「親鸞は言葉になっていて、人々の心の中に生きています」その呼び声に耳をもっと傾けるようになりたいと、後期修練で大事な事を教えて頂きました。
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