「海」とは不思議なものです。場所によって雰囲気が変わることもあれば、天候によって海自体の雰囲気も大きく変わります。
鳥取県も敦賀と同じ日本海ですが、冬の日本海は迫力あるな、と改めて感激しました。本来海が好きだった私なのに、20年前日本へ移住した時、何故か京都に住む事になった。
真宗大谷派で得度して、所属寺院の住職に法名に「海」と一字を付けて頂き、釋萌海としての歩みが始まった。所属寺院は土佐清水で海の側だったこともあり、また、不思議に、住職として迎えさせて頂いたお寺もまた、海の側です。
海というのは、すべての川の水を迎え入れる、どんな水でも同じように海に流れ込んでいく。そして海に流れ込んだら、すべての川の水は等しく同じ海の水になる。
私が人前に立つと、まずは外国人僧侶で珍しくて、また異文化を感じる門徒さんがほとんどでしょうが、法話で語りし始めたら、私たちと同じ道を歩んでいる仲間であったと親近感が湧いて、サンガの心が生まれてくる。今まで何回も実感させて頂いた、法話の後抱きしめてくる門徒さん、手を握りたい方、毎回あると言っても良いぐらいです。
私の話しは素晴らしかったからではなく、心中不思議なはたらきによって、言葉で表しきれない繋がりが生まれたからです。
「海」を転成という はたらきをもつものとして例えられているのですが、法のはたらきはこの繋がり生み出していると思います。
「如衆水入海一味」、「衆水、海に入りて一味となるがごとし」
すべての川の水は異なった味ですが、海に流れ込むと一味となっていく、それが海のはたらきである。
ある場所に3本の川が流れていて、それぞれ名前のある川ですが、やがて海に入ると皆名前はなくなり「海」となる。
私たち人間もそれぞれ名前があり、人生がみな違うように、生き方・考え方・環境に違いがあります。けれどもどのような人であろうとも、阿弥陀仏の願いの前では何の違いもないと教えられています。
昨夜は鳥取県から帰ってきたばかりで、今日は岐阜羽島にある正壽寺の報恩講でご縁を頂いた。住職さんと坊守さん、娘さんは心の優しい方で、その雰囲気は正壽寺の本堂でも伝わってきます。門徒さんもきっとそのエネルギーを感じ、午前午後共にお参りしてくださった方が多くて、本当に明るくて素敵な報恩講でした!ご一緒にさせて頂いて、本当にありがとうございました。