何故浄土真宗選んだのか?とよく聞かれています。僧侶の道に憧れていましたが、宗派には詳しくなかったです。正直にいうと、宗派についてそこまで深く考えてもいませんでした。
当時働いていた西山高校は西山浄土宗に関係があり、僧侶であった校長とも色々話し合いましたが、「外国人で女性である貴方にとっては僧侶の道はハードルが高すぎると!」ストレートに断言されました。
また、東本願寺の接待所で、得度を願っている、と直接問い合わせてみたら、首傾げられました。ちょっと、、難しいな、、って感じでした。
あなたは帰敬式でもいいのでは、と何回も言われました。僧侶なる覚悟はあるのか、と。しかし、正直なところ、9歳の子でさえ簡単に得度させてくれるシステムでは、お寺の後継であるとしても、その年で得度の覚悟は持てるとは疑っています。
禅寺なら、外国人でも案外に簡単に受け容れてくれますが、浄土真宗は、開放的のようで、実際には保守的な面があります。
英語の生徒のお兄さんは聖護院の偉い方で、よかったら得度させてあげると、言って頂いたのですが、心の中の何かが、この道ではないと、囁いてくれたかのようでした。その道を選びませんでした。
結局はFacebookの上で、土佐清水、誓願寺の住職との出遇いが縁となり、浄土真宗の僧侶としての歩みが始まりました。
しかし、どうして浄土真宗を選んだのか、という質問には、いつもちょっと悩んでいます。
師匠との輪読会で、善導大師の言葉に貴重なヒントを頂きました。
私の上に働くということを抜きにしては本尊ということはない。私の上に働いておられるということを抜きにして、私は阿弥陀如来を本尊としているということなら、それは阿弥陀如来を選んだ自分の方が上になってしまいます。そうではなくて、実は仏によって選ばれているのです。
善道大師は、ただ仏法を学ぶということであれば、どんな教えだって学べる。学問の対象として学べる。しかし仏法を生きることとしての学び、行学とするときには、必ず有縁の法によれと。
もし行を学ばんと欲わば、必ず有縁の法によれ。
縁があると言う事は私の選びではない。私がどれだけ選んでも、直ちに有縁にはなりません。相手が私を選んでくれたときに、初めて有縁ということになるのです。
ですから、われわれにとって有縁の本尊というのは、我々の為に我々を選んで、我々に呼びかけられて、そこに法を明らかににされた仏ということなのです。ですから、有縁の本尊としての阿弥陀如来というのは、つまり私に働きかけてくださっている仏という事です。
私がこの人生を生きていく上で帰依すべき法、帰命せずにいられない法。