私は所属寺院の住職と出遇った時初めて被差別部落の言葉に触れました。
所属寺になることは大歓迎ですが、先に伝えなければならない事があると、被差別部落の地域にある寺院であると、住職の言葉でした。
日本に何年も住んでいた私ですが、「部落」という表現は一度も聞きませんでした。部落とは何か、あまりよく分からなかったが、全く気にならないと、当時住職の浜口先生に答えました。
被差別部落差別はスイス人の私に把握しにくいところがあります。インドのカースト制度なら、slumに暮らしている人は一番低いカーストであることは見て明らかに分かります。しかし被差別部落の地域が見ても、よく分かりません。
被差別部落差別もそうですが、外国人として今感じているハードルにも共通点があるように思います。偏見ないといいながら、何処で差別的意識があります。
人間にある差別観は根深い、自分に関係ないと思っても、縁があれば出てきます。仏様の教えを学んでいる私たちには差別問題は根本的な問題であるから、無視することはできません。
縁があれば、行為となり、態度となり、必ず現れます。無意識の差別は一番問題ある差別です。
私は大谷派のある住職に、得度するなら、あえてあいう寺は所属寺院として選ばない!とストレートに言われた事もあります。
親鸞の人間観、以下にある2点は特徴的でしょう。
・御同朋御同行、弟子一人ももたず
・念仏の教え→ 自身の身の事実を自覚していく道
お念仏を拠り所として生きている私たち真宗門徒なのに、自身の身の事実を自覚しているようには思いません。
学院では、差別問題を、歴史的な出来事として教えられたのですが、それでは差別問題として学ぶ意味があるのか、と疑問あります。
何故差別問題の向き合う必要があるか、何故差別は自分自身に関係あるのか、そこ明らかにしなければ、自分の問題にはならないと思います。
また、部落差別だけではなく、外国人に対する差別意識も自覚して欲しいのは私の願いです。
念仏の教えは、自身の身の事実を自覚していく道であるからこそ、
悩み苦しんでいる人を見殺しにしてはいけません。