「living」とは、生活を通して聞く

高雲寺「聞法会」に沢山の人が集まり、大変賑やかになりまさした。「聞法会」よりも、「座談会」だったかもしれないけど、一方的に聞くだけでは無く、気になる事を語り合えることが大切だと思います。ものを申すからこそ、間違った受け止め方している自分に気付けます。

実体がない如来を、どのように捉えたら良いのか、と戸惑っている門徒さんも、。

ご本尊 に向き合いお参りすることは「形」を通して教えに出遇う、しかし阿弥陀如来は実体的ある人物ではないから、あくまで方便という形になります。

仏の智慧の世界に出逢って欲しい、と願われている。その為にはメタファー metaphor 
(例えとして表現された世界)が必要となる。
言葉は何を伝えたいのか、それは文字通りではなく、そこに伝えたいものが隠れている、そういう話ししました。
正に月と指の例えです。

「信心」を acceptance and insight

「信心」というのは、如来のお心が、私の中でそのまま響いている状態ということになります。

自分を超えたものに出遇う。私たちは仏にはならないが、仏の心を頂く事はできる、それが凡夫の自覚でしょう。自分の視点からではなく、仏さんの視点!

本当にそれでいいのかと、それが仏さんの眼差し。

私たちは大体知識で聞いてしまう。だから聞いても覚えられない。
そういう聞き方している限り、聞こえて来ない!と以前藤井先生に指摘されました。頭で聞き、身で聞けないから、自分の問題として聞こえてこない。

それは「解学」とZendo!
「解学」ではなく、「行学」

教行信証の「行」を鈴木だいせつが「living」と表現された。

「living」とは生活を通して聞く

門徒さんに色々質問されたが、未熟な私に全て答えを持てる訳ではないですが、門徒さんと共に問いかけるというか、というを持ち続ける事は大切だと思う。
御院さんだって、全ての答えを持たなくても良い!

共に考えて行こう、と。

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