「願いは形となる」やはり、これですわ!今桑名の帰り道、電車の中色々と考えさせられている、、何故こんな私が僧侶となり、何故お念仏の不思議なはたらきによって、こんな私がまたいろんなお寺にご縁を頂き、沢山の人の前で真宗の教えを語る身となったのか、と。どう考えても有り得ないことです!考えても、説明できません。
「願いは形となる」、願いが形になったのだ、という声に気付かされた今、、如来の願いだけではなく、やはり、自殺された母の願いでもあるのでは、と今は感じて、涙が溢れています。なき人の声は沈黙の中、私たちの心に届いています。
悲しみのあまり、我々残されている人の歩みが止まる事は確実に一番願われていない事でしょう。私の分まで歩み続けてよ、とかえって願われている。
門徒さんの前話しをさせて頂いている度に、毎回不思議な事が起きている、、門徒さんの悲しみや私の悲しみが共通のものとなり、話し終わった後、手を握ってくれる方が毎回何人かいます。あ、共通の思いになったな、とその度深く味わせて頂いています。
このように、沢山の人の悲しみ、その思いが一つになり、また、願われている事に気付いて欲しい、心の奥底にある声こそ、如来の願いでしょう。「願いは形となる」、今日こそは深く感じさせて頂いて、手を合わしたい気持ちでいっぱいです。
南無阿弥陀仏
今日は桑名にある「善正寺 女人講•報恩講」にご縁を頂きました。
以前は桑名別院の暁天講座でお話しをさせて頂いたことはあります。あの時はまだ真宗学院一年生で、沢山の人の前でかなり緊張したとよく覚えています。法話も声明も同じですが、何回もその場に「身を置く」しか慣れる方法ないでしょう。しかし心暖かく応援してくださる方がいるからこそのご縁だと有り難く思います。