「キリスト教&仏教」、zoom宗教対談に参加させて頂きました。キリスト教の文化が背景になっているスイスからきている私には興味深い対談でした。浄土真宗の僧侶として歩んでいる私に大きな影響を与えているのは確かです。

西洋人や日本人が気になるところは多少違うような気がします。学院に入る段階、私がまず気になったのは、

What is the Pure Land? Is it a state of mind or some sort of metaphor? 
お浄土とは実際にある場所なのか、それとも何かの象徴であるのか?
この解釈は僧侶の受け止めによって随分変わると思います。

また、
What is Amida? 
はたらきそのもの、とよく言われています。キリスト教の神様とは随分違うはずですが、
それでもsubject と objectのような印象をうけてしまう時があります。私というsubjectが信仰の対象となっている阿弥陀仏というobjectを拝んでいるかのようです。
しかし、本当にそうであれば、キリスト教とあまり変わらないことになってしまう。

学院で学び始め、法蔵菩薩の物語もまた気になっていました。どのように受け止めれば良いか、ずっと迷っていました。

法蔵菩薩が極楽浄土を造り阿弥陀如来となったストーリーは"フィクション"だと、ある先生の方にお話しを聞きました。フィクションという言葉は適切かどうかは分からないですが、別の言葉で言えば、メタファーでしょう。

私はフィクションに手を合わせるに違和感を覚えたのですが、違和感あるのは私だけかな、とずっと一人で迷ってしまいました。私はフィクションに魅力を感じたのではない、のは確かですが、真宗とは何か、と外国人に問いかけられても、うまく答えられないのは、今でも悩んでいます。

新訳聖書は実在に生きたイエスの歩みが載っていますが、
浄土三部経は実在の人の歩みは書いていなくて、完全な物語になっています。そこはキリスト教の世界から来る者はまず違和感あったのはおそらく仕方ないと思います。

ある日は英訳されている、曽我量深の本が手に入って、
曽我量深も菩薩菩薩の物語をどのように受け止めれば良いか、悩んでおられたと書いてあって、驚きました。学院でも皆に問いかけましたが、周りに私と同じような問いや疑問を持っている方がいなくて、悩んでいるのは私一人のかな、とずっと寂しく感じました。

歎異抄にあったように、あなたも同じ疑問を持っていたね、僕も同じ道を通って今に至っている、という、善知識の声に憧れていました。

曽我量深は法蔵菩薩を、a symbol of the awakening faith in human beings と表現されています。

何故物語は真実に導く働きを持っているのか、これは大切な疑問だな、と個人的に思っています。

信じる以外ないかも知れないですが、疑問や問いかけもなければ、自分のものにはなってこないのでは、と思います。

色々考え、悩むのですが、いくら考えても答えがでません。しかし問いを持つことは間違いなく大切なことでしょう。
お浄土は人間が獲得した知識で捉えようとしても捉えられないだろうな、と今は思っています。

法蔵菩薩の物語にしても、神話にしても、歴史的実在でなければ、信用性がないのか、そういう問題ではないです。

物語をそのまま信じるのではなく、物語が何を伝えたいのか、とらえ直していく必要あります。

言葉通りではなく、
当時の人は何が伝えたかった、
そこを考えるのが大事です。
神話として語られているもの、それを語り直す必要があることを感じています。現代の人に分かるようにですね。

法蔵菩薩の物語は真理を伝える為の手段であって、目に見えないものを私たちに知らせる為にあることが分かります。
しかし良き師の存在が不可欠だな、と改めて感じています。
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