「お念仏は有り難いですよ。親鸞の教えは尊いですよ」と人には説教するのですが、自分自身は本当にそう思ってないじゃないか、口先で言ってるだけなのでは、と内心の声が聞こえてくる。
何年聞いても聞いても、仏法を信じない、受け付けない自分である。
教えが実感できない苦、それについて考えさせられたのは土井先生のお言葉です。尊い言葉で感謝しています。土井先生は自らの歩みを語っておられているが、私こそが同じ道を今歩んでいると感じる。
「阿弥陀仏との出遇い」とは具体的何でしょう?信心というのは阿弥陀と私の生の出遇いによるもので、単に教えを聞いて、わかって知識をためることではない。
しかし日常生活の中でどのように「出遇う」のか、どごで実感するのか?
自分の心が問題になる、ならなければ始まらないでしょうね。
清沢先生は「仏とは何ぞや、浄土とは何ぞや」と問わずに「自己」とは何ぞや」と問う。
いわゆる自己の存在根拠を問う。
「私は神も仏もいりません」と言っても、「そう言っているあなたは何であり、どのようにして成り立っているのか」という問いから逃げることはできない。
清沢先生が、
「本当の自己とは何ぞや、他ではない、限りない絶対的いのちのはたらきの上におかれ、今ここに我々のはからいを超えてちゃんと存在しているもの、それが自己である。
教えが実感できない苦、そんな自分である事を認識することから「本当の出遇い」が始まるのかもしれない。
また、同じ経験を持っておられた先輩方と語り合いながら己の道を探る事こそ尊いでしょう。