この写真は母が亡くなる半年前、スイスで最後に会った時のものです。母はあの時既に鬱病にかかってて、昔と比べてはかなり暗い印象を受けました。常にパワフルで精一杯生きてこられた母は老いを感じ始めたところ不安になり、安楽死を独断しました。

周りに迷惑かけたくないと言いながら、本当は自らの弱い面を皆に見られたくなかったでしょう。母は自信満々で考えている事を常に申す性格だった。だから安楽死も平気に選べたかも知れない。

家族の中心になっていた母がいなくなり、姉や兄とも縁が切れてしまいました。

実は、母が亡くなって今日で丁度9年になり、父はその2か月後急に倒れました。二人が亡くなった以来、私は里帰りもしていないです。もう里帰りできるところもないです。いつかは戻らなんあかんと思いながらも、戻る際の感情を恐れている。

大切な人を自死で亡くした時、さまざまな複雑な感情を抱き、悲しむことさえできない事もあります。私は今だに母の死で涙を流していない。自然死と違って、心の整理がなかなかつかない。

自らいのちを絶つのが良いとか悪いとか、安楽死の是非が問われているのではない。私たちは悩んでいる人の 本当の願いを聞いているのかが問われている。なぜそんなに死にたいか」本当に願っているのは何か、その声に耳を傾けなければいけないと思います。

真宗の僧侶になり、仏道を歩ませて頂いている今の私は、安楽死を希望している母に対してどう応えているだろうか、と考えている時も、、?
しかし身近な人になると、冷静に対応する事はあえて難しくなる。

浄土真宗では、無量寿としてのいのちへの目覚めを説いているが、私のいのちは私のいのちであるままに私のものという限定を越えた尊厳を持っていることを。

しかし現実に生きる私たちは、お互いを光り輝く存在として尊重することが極めて難しい中を生きています。自分がもう役に立たなくなったから死を選びたい、という気持ちになった人を眼の前にした時、自分はどのようなことができるのだろうか。

苦しみ悩む人のそばに寄り添って話を聞き、生きていける環境を作り、その人が生を全うできる条件を整えていくことが大切でしょう。

本当に生きる意味をこそ、仏教に求め続けていきたいものです。
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