「何をよりどころにして生きるのか」宗教とは、私たちの心の奥底で一番願っている本当に拠り所とすべきものである、のが今日の演題でした。生きる道となっていることについて考える事は大切だと思います。

宗教はは何を示しているかというと、向き合っていくべき方向でしょうね。今日、住職の話しにもありましたが、人間関係の中で相手に向き合うと言っても、困難な時に寄り添えないのは私たちの現実です。直ぐに議論になったり、自己を正当化したりします。
共に仏様と向き合っていって初めて、相手に耳を傾けるようになります。

不可思議なはたらきに照らされながら初めて情け無い自分に気付かされます。やはり、仏様の存在は大事であり、私たちにとっては必要不可欠な存在です。

相手に寄り添っていける、自分の力で相手の不安がなくなる為何かできる、これは思い込み世界他ならないでしょう。住職であるとは言え、私たちも人間関係を生きていながら、人間関係に左右される平凡な人間です。

最終的は仏様に共に手を合わせながら教えに問い訪ねていく以外道ないと思います。
しかし、このようにして自らの壁にぶつかっていくことも、時には必要な促し、導くご縁となるでしょう。

本日は名古屋で、西福寺にご縁頂いたのは3回目となりました。何回もご縁を頂いて、感謝ながらも知識の限られている私で本当に恐縮です。

高雲寺住職になった事は私の人生においても大きな展開であり、それのお陰で思い知らされること、得れる事は言葉で表しきれない程沢山ありました。正式に住職として任命されたのはまだ10カ月ですが、高雲寺に初めて足を運んだのはもう1年になりました。

短期間ながらも、門徒さんに色々と教えて頂きました。住職や門徒さんこそ、人間関係です。ぶつかり合いながら、その人を通して自分の姿を知らされます。感謝すべきご縁です。
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