以前より話しの中身がだいぶ深まったな、と終わった後声をかけて頂いて嬉しく思った。私は立派な学歴のある講師でもなんでも無く、歩みの浅い、偶々住職として歩むご縁を頂いた真宗門徒の一人です。本来は人前に立つ者ではありません。ありのままの歩み以外お話しできる知識もない。

「命は誰のものか」この問いかけが私を歩み出したものです。「自分の中に、本物を探す方向」から、「法蔵魂とは何か、不可思議なはたらきとの出遇いが始まったばかりです。内からの呼びかけでありながら、法蔵菩薩はどこまでも今までの自分の中にあるものではない。今までの自分にとっては、どこまでも彼岸からの呼び声である、それを
曽我先生が、「法蔵菩薩は我なり。されど我(今までの我)は法蔵菩薩にあらず」と表現された。

今までの自分にとっては絶対他者なる彼岸の声ですが、根本的には「外の声」ではない。むしろそれこそが自己の根元の声ではないかと感じています。

最近は「法蔵魂を呼び覚まされて」と宮岳先生の本が手に入って、自分の内感じた事が沢山述べられてあるから、深く感動して、自分の歩んである方向が間違っていないと確信できました。

われらは「外」なるものに依存することによっては、本当には救われることはない、それはキリスト教の世界でも違和感を感じ、頷けませんでした。

どこかに全能の他者がいて、それに出会いさえすれば救われる、あるいは宗教や様々な活動など、自分の外に救いや解決があると信じること、そういう宗教は自分の真なる心の拠り所になれない。私自身の感覚であって、他者の道や頂いている世界は勿論否定していません。

「本願力は、今までの自分においてはどこまでも絶対他者ですが、本願の呼びかけによって新しく開かれた本来の世界からみれば、本願力、すなわち法蔵菩薩の願心は、他力と言われていても、われらの本来力、根本力と言ってもよいものでしょう。他に依存することではない」 と宮岳先生のお言葉に深く頷かされます。

私の中を貫いているものだ、そこは、自分ながら不思議としか思えません。どうして、こんなエネルギーが湧き出るのか分からなかったからです。

感動したこのテーマについて自らの言葉で語るのに、語学力がなかなかついて来ないですが、歩むべき方向がはっきりしてきたとは感じ、喜んでいます。

そういう、私の見えない背後、底、根元に働いている私を超えた力のことを沢山の人に伝えていきたいです。

以前は春のお彼岸会で五村別院にご縁わ頂いたのですが、今回は同朋大会でした。貴重なご縁を頂いて、感謝しています。
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