「自分たちの見ている世界を
『氷山の一角』だと認識することが、実はとても重要なのだ」
お念仏の隠れた大きさを発見しなければ、親鸞さんと同じ感動は味わえないでしょう。今の私に見えているのは氷山の一角にしかすぎません。親鸞さんの足跡を辿りたいなら、水面下の隠れた部分は、これからの歩みの中で出遇っていかなければなりません。
「氷山の一角」という言葉がありますが その一角を見たら、その下に見えない塊 があることも想像できると言うことです。 人間の意識の世界も同じでしょうね。見える世界があれば、同時に見えない世界ぎ潜んでいます。
念仏、何故出ないかな、自然には出ないな、と感じ、悩んでる私です。念仏が自然に出ないと、気づいたこと、悩んでることはある意味で、第一歩かも知れません。
浅ましい自分に突き当たるのは、いわゆる努力して積み上げた認識ではありません。瞬間的に直感的に感得することは師匠の言葉でした。
相手が側にいて下さるから、浅ましい自分に突き当たれます。
私を浅ましいなあと思う心が仏の心だと認識して初めて念仏が出ます。
これこそは、私が今念仏に悩んでる理由だな、と痛感しています。
仏の心という認識が足りないから、念仏が自然に出ているように感じていません。自分自身の事を浅ましいとなかなか思えないから、念仏も出ないのは当然でしょう。
なぜ念仏が大事なのか。其れは仏の心を頂くからなのです。仏の心を戴くから念仏は回向なのです。
師匠に頂いた言葉は心身に沁み入りました。
浅ましいと思う心に同時にお念仏がでて、初めて正しい自己認識になります。浅ましいと思う心は念仏、この言葉の中、親鸞さんの心、魂が感じられます。
出遇いが縁となり、私の歩みは、本当に念仏に生きる人への、深い旅が始まったと、心より感謝しています。
慚愧心こそ仏の心です。