自らある宗教を選ぶのと、その宗教に生きる家庭に生まれるのと、本人の歩みにはどのような影響を与えるのでしょう? 

「うちも浄土真宗です」と得度した後よくお話しを聞きました。しかし、その「うちも浄土真宗です」というのは、本人の個人的な選びではなくて、家が浄土真宗となってきた流れになっているだけです。家の宗教と言っても良いでしょう。もちろん、それがご縁となり、聞法を続く中徐々に個人の宗教となっていく事もあります。

カトリックで幼児洗礼を受けさせることも、基本的には両親の判断で、本人が選んだ訳ではないです。

スイスでは子どもの洗礼式は生後6ヶ月~8ヶ月ぐらいに行われます。

しかしカトリックには「家の宗教」という考え方はありません。信仰はあくまで個人単位のものです。幼児洗礼を受けさせるかどうかは基本的には両親の判断です。

それでも、親はキリスト教の信者であれば、子供を洗礼式を受けさすのが通常の考えです。

周囲の大人にとっては、「お宮参り」同様、宗教的な意味とは別に、乳児期の節目の通過行事として、終生思い出に残ることでしょう。
 
カトリックや浄土真宗で問題が同じですが、「家の宗教だから」の概念から、本人の「信仰」に繋がらない事が多いでしょう。

親が熱心な信者なら、その気持ちが子供に移っていく場合もありますが、やはり、自分の選びではなかった、と違和感のある方が多いです。

信仰は個人と神との関わりであって、先祖や親戚との関わりの中で決めるものではないからです。
洗礼を受けた以上は、信者として登録されるが、心の拠り所という宗教になっていないことから、今教会離れという現象が起きています。
 
大垣別院で、私のお話を聞いて下さった方が、質疑の時に、安楽死の問題に関して聖職者はなんと言っているのですか?と聞いたら、キリスト教の聖職者は、「罪だ」と言っているが、社会がキリスト教が言っていても気にしなくなってしまっている、と聞いてさらにショックを受けた、と。

キリスト教の信者はスイスに多いですが、それは洗礼を受けた以上、自動的に信者として登録されます。自分で選んだわけではなく、親が赤ちゃんに洗礼受けさせる、意識もまだないうちに。ですので、信者として登録されていても、心の拠り所になっている宗教とはなってなくて、教会離れの時代となっている今です。自殺は罪とみられますが、その事さえ気にしないです。

自ら選んでも、そういう家庭に生まれたとしても、宗教は心の拠り所になっていれば、辛く苦しい時に生き甲斐を見出せる力となります。
生きる意味を分からなくなっている時にこそ、教えにたずねていく。
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