「過去の事実は変えられないけれども、過去の意味を変えることはできる」、この言葉が響きます。

過去の辛い思いを、誰でもが背負っているに違いない。もっとこうしてやればよかった、あの人を見殺しにしたことは自分である、など、悲しみの姿は様々です。

怒りは自分に向いている事はよくあります。いつまでも自分を責め続けている。しかしそれでは前向きになれない、誰の為にもならない。

悲しみ感じない、涙流せない、私はそうでした。自らで自分の死を終える事、どう考えても、不自然。残された人は素直に悲しめない、罪悪感が残る。

私の身近な人で自死した人は何人もいます。
母親、身近な人のお父さん、姉の夫、中学の同級生、、日本に来てからも、、。

姉の夫は銃で頭を撃って自死した。住んでいる家で、、姉は今日までその事について一言も言わない。言わないよりも、言えないでしょうね。残された人にとっては一生のトラウマになる事が多いと思います。

日本では自死がタブにされている面もあり、外の人には話せない、どう思われているのか、心配する。しかし語れないからこそ、いつまでも抱えている心の負担になる。

そういう悩みを抱えている人の為、少しでも気持ちを表現できる場を作るのは、我々僧侶の大切な役目でもあります。

「過去の事実は変えられないけれども、過去の意味を変えることはできる」、とあるが、過去の意味を変えることは、自分だけの力では難しい。

今日は茅ヶ崎にある宗泉寺にご縁を頂いているが、宗泉寺は本堂において、自死者追弔法要をお勤めたとホームページに書いてあります。

参加者全員でお勤めをし、法要中にはご持参いただいた大切な方へのお手紙を御尊前にお供えした、と。

とても大切な事をされていると文章を読んで感動しました。このようにして場を開くのが尊いです。

宗泉寺は現住職が始めた新しいお寺で、古くからのしきたりがないそうです。
また、檀家などお寺の維持のための関係もないです。
聞法会、報恩講、永代経などの行事をとおして教えを説いている。

このようにして、教えに興味関心ある方を集めるのは本当に尊いだと思います。

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