「仏教は誰のために」と今日会場となった善照寺にチラシが置いてありました。若い世代の人からは、「おじいちゃん、おばあちゃんのものだから、私達には早い」と返答があるそうです。
まだ苦しみや悲しみをあまり味わった事がない世代であるから、心の拠り所としての宗教の必要性もまだあまり感じていないでしょう。
仏教は「人間が生きるための教え」であるのに、身近な人の死がそれに気づかせて、仏道を歩ませる者にしてくれるのは不思議です。
キリスト教も教会離れが年々深刻になってきました。牧師になりたい人の数も減り、インドから牧師を連れてくるところが増えています。
スイスの田舎でインド人が牧師になると、まず皆がびっくりします。肌の色も違い、この人一体聖書分かるのか、と心配されます。
しかし、そこで聖書を開き、お説教が始まると、自分たちとそう変わらない、同じ人間であると親近感が沸きます。二、三年経てば、もう手放したくない程大切な存在になる村も、少なくありません。
チラシの最後には、
「教え」は「教え」を受け取る人がいて、初めてその役割を持つのです、書いてあります。
仏教とは、生きる人に必ず訪れる問題に向けられた「教え」であるから、その苦悩に向き合う私達のために説かれたものです。