僧侶として歩むようになってから、いや、歩みが始まる以前に、私は不思議な力に導かれていた、今はそう感じています。ここで自らの歩み、善知識(善き師)になってくださった方との出遇いについて少し語りたいです。

何故真宗大谷派を選んだのか、とよく聞かれています。私の選びではなかったのが事実です。聞かれる度に、答えに戸惑っているが、ある日、「有縁の法」という言葉に出遇い、とても喜んでいました。

「有縁の法」とは、自分自身にふさわしい法(道)ということです。
もしも実際に自分が修める行を学ぼうと思うのであれば、必ず自分にふさわしい法によるべきである、ということです。自分の生きる道として仏教を学ぶというものです。

ただ知識として学ぶ学び方は、本当の学び方とはいえない、仏の教えとは、人が生きる道を教えるものに他ならないから、だと、

苦しみや悩み、悲しみや淋しさなどをかかえながら生きる人間に、その人生を力強く生きていける道を教えるのが仏教だと私が教わりました。

自分の生きる道が明らかになっていくところにこそ、仏教の学びの大切な点があります。自分自身が苦しみや悲しみに直面したときに、それを問いかける力となるのは如来のはたらきそのものだと思います。

自分の選びではなかったが、確かに導かれていたように感じています。
具体的に言いますと、母が亡くなった後、西山高校で英語教師として働らくようになり、その環境で浄土宗西山派と触れ合い、仏教に対する目覚めであったのも過言ではありません。校長が仏教について色々教えてくださり、般若心経も一緒に唱えて下さいました。

僧侶の道を歩まなければならない、何かが芽生え始めました。しかし校長に少し保守的なところがあり、ある日学校の私の机の上に手紙が置いてありました。

全てはここで書ききれないですが、女性で外国人である貴方にとっては、僧侶になるのにハードルが高すぎる、と書いてあり、その言葉にかなり落ち込んでしまいました。

しかしそこで僧侶なる道は諦めませんでした。
もしそこで話しがうまくいったならば、私は浄土宗の者になったかもしれないです。

私は確かに、禅宗は選んでいないですが、真宗大谷派も選んだ訳ではないです。禅宗を選んでいない理由は、魅力的に思わなかった訳ではなく、自分自身が厳しい修行に向いていない、それが主な理由になっていました。

次に浄土真宗、離脱寺院の前住職に出遇い、正信偈や阿弥陀経を教えて頂きました。得度を願っていた私の願いを知り、どうかにサポートしょうとしていたが、前住職の家族は外国人をうちの寺に入れるな、と強く反対され、その道はそこで終わってしまいました。

直接東京に連れて行こう、とまで提案されたが、京都に住んでいて、京都に本山があるのに、何故東京まで行かなければならないのか、と違和感があり、無理やりに僧侶なる道を歩んでいるのではないか、と疑問を感じ、その話しを断りました。

しばらくは僧侶なる道が見当たりませんでした。得度するのには所属寺院が必要ですが、よく知らない外国人の私の責任を、誰が引き受けてくれそうか、そういう人はまずいないでしょう。

と思いながら、あり得ないご縁を頂き、そういう人に出遇いました。あっちこっち探した訳でも無く、自然と出遇えたから不思議です。それは四国土佐清水に誓願寺の住職されている浜口さんでした。小さいお寺だから、大したサポートはできないが、よければ誓願寺の名前を使っても良いと、思いがけない言葉を頂きました。

直接会った事もなく、Facebookの上だけ繋がっていたのにも関わらず、いまだに住職の広いお心に頭が下がります。そこで大谷派の僧侶としての歩みが始まりました。貴重なご縁を頂いて本当に感謝しています。しかし、所属寺は住んでいる京都からかなり離れているところにあり、お勤めを学ぶのには離れ過ぎていました。

そこでまた次の不思議なことが起きたが、偶々東本願寺の北にある圓徳寺の前に通りかかって、住職の亮一さんや前住職である佐藤先生に出遇えました。
声明を教えて頂きながら、少しずつお寺にある法事、のちに葬儀でのお勤めを学ばせて頂きました。住職さんとご一緒にお勤めをさせて頂いて、少しずつ法事に慣れてきました。

圓徳寺との出遇いがなければ、私はいまだにペーパードライバーになっているでしょう。元堂衆である佐藤先生はお勤めについて色々教えてくださり、この私の歩みを支援して下さいました。今考えると、あり得ない事です。

真宗学院に通うことになり、そこで学んでいる間も常にサポートして下さいました。支援して頂いたからこそ、自分の良い面ばかり見せようとして、ある意味プレッシャーも感じました。
佐藤先生がよく、

「あなたが生活のすべてに袈裟を身につけているから、あらゆる意味で袈裟功徳を受けていると思います」
と話していました。私の袈裟姿に本気を感じたと言っておられました。

道を本当に求めている、その気持ちは以前と全く変わっていないですが、自分自身の情け無い姿を曝け出しながらにしか歩みが始まらないのが明らかになりました。

今になっては、この道以外は私にないと、その情け無い自分の姿を受け容れながら、課題を持ちながら、新たな出発になりました。

「私」ということが 問題にならない限りは 人間にとって 出発は 起こり得ない、という言葉がありますが、本当の、見にくい自分に向き合っていく以外ないと思います。

今までの歩みで沢山の人に支えて頂いて、力になって頂きました。
また、まだ歩みが浅いこの私に、人前に立たせて頂き、お話をさせて頂くご縁をくださる寺院が沢山ありました。
心暖かく応援して頂いていること、あり得ないと思いながら、今僧侶として歩まさせて頂いている私がいます。

いつか、質素な山寺の住職になれたらいいな、この念願は、高雲寺との出遇いによって実現され、
改めて不思議な力に導かれている自分であると、深く感動しています。あり得ないご縁を頂いているのは確かです。質素な海寺になりましたが、、。住職になれる、この願いまで叶うなんて、今だに信じられないです。

「出遇いに支えられ、出遇いに育てられ、つながりを生きる」出遇いによって人生が深くなる。

出遇いこそが道を歩むご縁となり、その道を導いてくださる人の存在がとても大きいだと感じています。教えは素晴らしくても、本だけでは伝わらないところもあります。
その教えに生きる人との出遇いを通してこそ、その魅力が伝わります。

この事を意識しながら、これからも歩んで行きたいと思います。

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