葬儀が相次いでいるこの二、三日ですが、この私たち住職、僧侶の主な使命はいったい何なのでしょうか、、? この人生が終わる時、最後の導きを指し示す、お浄土に見送る、、。小さなお寺だと、門徒さん一人一人の顔をよく知っていて、共なる歩みがある。皆、父母の如く、身近な存在になっていて、一人一人を見送るのは、住職としての私の役割である、、いったい、涙流さずにお勤めできるだろうか、とこのごろ、考えています。涙を浮かべながらお勤めをする住職、いるでしょうか?以前出逢った善知識の言葉ですが、亡き人の死を悲しんでいる人が一人でもいれば、その命が救われる、。その言葉が心に響きました。一人でも悲しんでくれる人いれば、その命が救われる、自分の死を悲しんでくれる人がいるだろうか、。
「葬儀法事を勤めるだけが、私たちの仕事ではありません。亡き方の言葉に、聴聞された姿に、念仏の声に、こめられてきただろう思いを、お伝えしていかなければならない
亡き人を失った悲しみの深さは、生前その人からいただいた贈りもののおおさだ」
と心に染み入る金丸さんのコメントを引用させて頂いています。
当然、私たちは皆人間であるから、感情、気持ちを抜きにはできない。寺院の為に住職を探しておられた門徒さんは、最期に見送ってくれる人が欲しい、見送ってくれる人がいると安心、、。最期に、私に見送って貰いたい、そう望まれているでしょうか?
見送るのはもちろん、住職の大切な役割の一つですが、複雑な気持ちでもあります。一人も失いたくないというか、今までお寺を支えてくださった大事な人、一人一人失っていくと考えると、とても辛いです、、。
高雲寺のご本尊は今までどれだけの大切な人を見送って来られているでしょうか、?その歴史は、今現在に繋がっている、、。
一人一人を失っていく事によって、高雲寺の身を削がれていくような気持ち、、。しかし、この高雲寺は何世代に渡って、今現在に繋がってきている、その歴史の重みを感じ取っている。不思議なはたらきはこの命の繋がりを途切れさせない。そういう力が確かにはたらいている。
その不思議な力に任せながら、高雲寺と共に歩んでいきたいものです、最期までも、、。