道を求めるというのは、本当に自分を実現してゆく道。自分の深い心の底に脈々と流れている自分の魂に目覚める事が大切だと思います。私が私と思っている私よりも、もっと深い根源の真理です。自分に帰れという促しを頂いているのも、実は私です。
人間はだれでも幸せになりたいと願っているが、どうなることが本当の幸せなのか、これが分からないのではないでしょうか?楽になりたい、この楽というのも、幸せということの一つの内容でしょうが、何がいったい、本当に楽なのか?体と心の負担がなくなった状態でしょうか? もっと深いところにある人間の願い、それは私が本当の私になりたい。自己実現、これが本当の願いではないか、と思います。
その実現を通して、深くて広い人生を見いだそうとする、そういう求道心に動く人間。人間の構造は、どんな人間でも必ず菩薩という構造を内に深く持っている。深い私の根源から私の根源に帰れという呼びかけこそ本願でしょう。
先日お寺で語り合いながら相手の悩みを聞いて、色々と考えさせられました。救われるとは何か、誰でも課題になる時期があるでしょう。人間はその救いを自分の外で求める限り、本当の救いをいつまでも味わえないでしょう。
家中がうまくいかないから、それをなんとかうまくいくようにしたい。そういう心で道を求めるのは、まことにその心はやむをえない、切実な心だと思いますが、純粋だとは言えない。もし人間的な欲望を満たすことが宗教だとしたら、宗教はかえって人間に利用されるものになって、人間以下になり、それでは逆に人間を救うものにはならなくなってしまいました。自身が自覚する以外に明るい世界を見出す道はないと思います。