大切な人であればあるほど、その人を失くした時の悲しみは深いものです。頻繁に悲しみに襲われ、深い穴に落ちている人に対して、どのように触れ合えば良いか、本当に難しいだな、と今痛感しています。僧侶である皆さんは、どのような言葉をかけているのでしょうか?
悲しみは乗り越えるものよりも、むしろ乗り越えようとせず、ずっと持ち続けていいものでしょうね。
今阿闍世の物語を勉強していますが、その物語に出てくる、
「私は、阿闍世のために、涅槃に入らない」言葉に感動しました。
「アジャセのために涅槃に入らない」という言葉は、深い悩みをもつ者に対してこそ、仏の慈悲は注がれる「苦しむあなたが救われるまでは、私もいっしょだよ。」
しかし、悲しんでいる人の側にいて、その人の気持ちを理解し、その心に寄り添うのはとても難しいと、今貴重な体験させて頂いています。
仏の月愛三昧には、月の輝きが闇を残したままで、人々を優しく照らすように、月愛三昧は、とがめることない、無条件の受容を示している。
黙ってそこにいることは、苦しみの中にある人にとってとても救いに満ちたものとなります。「何かをするのではなくて、そこにいること」、「not doing but being」
深い悲しみを言葉でなかなか表現できないから説明のいらない共感は、苦しんでいる人の求めるものでしょう。しかし、そこにいることは、実際にはとても難しくて、なかなかできないな、と今感じています。
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