高齢者の「安楽死」「これ以上生きたくない」

あなたは高齢者の安楽死は認めるべきだと思いますか? あなたなら、安楽死を希望しますか?

また、僧侶である私たちは、安楽死を希望する高齢者に対する、どのように対応すれば良いでしょうか? 死を選ぶ権利は、あって良いでしょうか? 

去る5月10日、104歳のオーストラリア最高齢の科学者、デビッド・グドールさんが「これ以上、生きたくない」とスイスへ渡航し、自らの意思で死を迎えた。末期症状の重病を抱えていたわけではなかったが、身体機能が衰えて自立した生活ができなくなったことが主な理由だったという。

スイスは外国からの「安楽死希望者」を受け入れて支援を行っている、世界で唯一の国だ。スイスの規定では、「末期症状を抱えた者」を対象とし、「医師の診断記録を裁判所が確認した上で、“自殺幇助“を提供するかどうか判断する」とある。つまり、高齢の「安楽死希望者」なら誰でも認めるというわけではないのだ。しかし、グドールさんのように末期症状を抱えていなくても認められたケースもある。

私の母親も、末期症状を抱えていた訳ではないのに、安楽死許された。これから先は下り坂しかないから、もういいわ!と。
老いていくという下り坂を都合悪く思うから、安楽死は許可されるべきだろうか? それはいのちの私有化にならないか?

デビッドが、「私は死にたいのです。それは特に悲しいことではなく、本当に悲しいのは、死にたいのに死ねないことです。私の心情としては、自分のような高齢者は自殺幇助を受ける権利を含めた市民権を認められるべきだと感じています」。

日本でも7割以上が安楽死の合法化に賛成しているみたいです。主な理由は、家族や社会に迷惑かけたくないことだそうです。しかし、老いていくのは、社会に迷惑でしょうか? 

確かに、医学の進歩や延命治療による自然死は難しくなったでしょう。

その為に、安楽死は必要な選択肢になったのでしょうか?
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