真の教えと出遭わせてくれるものとは何か?現実に苦しんでいる人の話を聴いていると、その人にとっての「救い」とは何なのかを考えさせられる。
人間は元気なうちは宗教に用がない。体調悪くなって初めて心の拠り所を求めるようになる。それを逆縁と言っても良いでしょう。
スイスのおばあちゃんはエホバの証人という宗教団体に所属していたが、死ぬ前になった時、地獄に落ちる事を凄く恐れていました。宗教は生きている間心の拠り所になっているように見えたが、最後は救いにならなかったようです。
宗教とは、私達が一番奥底で願っている、本当に拠り所とすべきものです。課題を持つことがなければ、宗教という心の拠り所の必要性が感じられない。
自分の問いや疑問、時に怒りといったことこそが、自分にとっての一番の入り口になります。私は教えを求めて真宗の世界に入ってきたから問いや疑問は隠さずに周りの人にありのままぶつけてきた。
「ものを申せ」と蓮如上人の言葉ですが、分からないところをこそ申さなければならない。こんな事を聞いたら周りにどう思われるのか、と気にしているうちは、本当の教えと出遭えない。よく分からないけど、今更住職に聞けない、と門徒さんからもよく聞く話しです。何故分からないところを尋ねるのはそんなに怖いでしょうか?知識ない者と思われたくないからでしょうか?
先に歩まれた者の一言こそは、今迷っている私たちの為に貴重なアドバイスになり、真の教えに出遭わせてくれるご縁となるかも知れない。先輩方も同じところで迷っておられたからです。
また、自分の思いよりずっと深い価値観に触れたとき、自分の思いが相対化され、それに縛られていた自分が見えてくるのかもしれない。
誰しも自分自身の中に、根源的な欲求があるが、その意欲と向き合うのは難しい。自分が本当に追い込まれた時や絶望の淵にいる時、無意識に自分の中のその欲求と向き合わざるを得なくなる時がくる。