真宗学院での3年間もいよいよ終盤に近づき、卒業すればずっと望んでいた教師資格を取得することが出来ます。しかし3年間勉強させていだきましたが未だに何も分かっていないことを痛感しています。仏教や真宗についていろいろな話しを聞き学びましたが、親鸞の教えを、本当に感じたかと言えば、まだまだそうではないな、と言わざるを得ません。お念仏・往生・成仏、という真宗の根本的なところの理解はまだまだで、未だに理解に苦しんでいます。
先日、修練の班での話し合いの中、念仏を感じるかということが話題になりました。坊守さんの一人が、念仏はイマイチよくわからないが門徒さんの前では「いい格好」しないとね、という発言がありました。その言葉について考えさせられました。やはりこれは違うなと感じています。念仏を理解しないまま、わかっているようなふりをしても、門徒の方々にはその心を見透かされてしまうのではと思います。むしろ正直に私にもまだよく分かりませんが道を求め続けたいと、ありのままの姿を見せた方が相手の方々にとっても励みになるのではないかと思います。
また、別の坊守さんでお寺生まれの方が、小さい頃から手を合わせてお念仏を称えなさいと押し付けられており、手を合わせる事にずっと抵抗感があり、できなかったそうです。「お念仏を分かろうとしてるから」と班の先生の指摘があり、その言葉は彼女の心に響きました。そこで初めて、何故お念仏に抵抗あったかが見えてきて、新しい世界に出遇えました。
私も、「お念仏を分かろうとしてる」、これは確かにあります。分からなくても良いから、とりあえず称えたら良いと言われる時もありますが、やはり、それも違和感があります。
私はお寺を継がないといけないという事もなく、自らの歩みの中浄土真宗の世界に出遇い、僧侶として歩み始めたのです。だからいい格好しなければならないというような悩みは私にはないです。しかし、「お念仏が分からない、感じない」この悩みは抱えています。師匠に、綺麗事を書いていると指摘がありました。私は今まで自分に感じている事を何回も文章で書き表わしてみました。綺麗事よりも、ありのまま、今気になっている事をそのままに、、。確かに格好悪い事をわざと書こうとはしないでしょうね! 真宗学院を卒業するに当たって本当は喜ぶべきところを、私には、いや、未だに、よく分からないな、という疑問があり、ちょっと落ち込んでいます。もちろん学院の3年間だけで全てを理解できるようになるとは思っていません。教師になってからがスタートである事はよく意識しています。
しかし、本当の理解は机上の学問からは生じないでしょう。むしろ、日常の出遇い、ぶつかり合いの中、見えてくる世界があると思います。
教えに道を尋ねていく、この暗さを大事にしていかなければ、とは感じています。
自身の姿に頭が下がり、懺悔の気持ちになって初めて慚愧の心が生まれる、と以前佐藤先生に教えて頂きました。慚愧の心がなければ、お念仏を本当の意味で頂ける事もできないでしょう。また、お念仏の隠れた大きさを発見しなければ、親鸞さんと同じ感動は味わえないでしょう。
念仏が自然に出ないと気づいたこと、悩んでることはある意味、第一歩かも知れません。
浅ましい自分に突き当たるのは、いわゆる努力して積み上げた認識ではありません。瞬間的に直感的に感得することは師匠の言葉でした。
相手が側にいて下さるから、浅ましい自分に突き当たれます。
私を浅ましいなあと思う心が仏の心だと認識して初めて念仏が身近な存在となります。
これこそが、私が今念仏に悩んでる理由だ、と痛感しています。
仏の心という認識が足りないから、念仏が分からないのです。自分自身の事を浅ましいとなかなか思えません。
なぜ念仏が大事なのか。其れは仏の心を頂くからなのです。仏の心を戴くから念仏は回向なのです、と以前頂いた言葉です。
浅ましいと思う心と同時にお念仏がでて、初めて正しい自己認識になります。浅ましいと思う心は念仏、この言葉の中、親鸞さんの心、魂が感じられます。
人はみな誰もが、居場所を求めつづけています。自分の居場所は何処にあるのでしょうね?
ひとりの人が悲しみや悩みを抱えて今を生きているけれども、それは決して孤立することではなく、同じように悲しみや悩みを持って今を生きている人と、その気持ちを縁として、人と人とがつながっていきます。
私はこういう世界が開かれていくことが、人間の世界に求められていることだと感じています。
「苦をまぬがれるには その苦しみを生かしていく道を 学ぶことです。慚愧心こそ仏の心です」
ですから、お念仏はやはり生涯をかけてでも、明らかにしなければならない「深いもの」だな、と思い知らされています。
怒り、悲しみ、むなしさ、苦しみ、それらこそは私を歩ませる促しです。